安保闘争とおじいちゃん


熱はあるが眠れないので・・・
先延ばしにしていた「安保闘争」について勉強てました。
1960年と1970年に起こった日米安全保障条約についての
騒動です。

概略は知っていたので、詳しい経緯を読むこと。

そして、当時の若者達は今は60~70歳といった
ところか。彼らのその後の人生はどのような物で
あったのか。ネットで当事者の生の記録をいくつか
読みあさってみた。

安保について意見するのはやめておこう。
僕は右や左、どちらでもない立場から
平和のためになにか役に立てたら良いなと思う。

・・・・・

おもえば、僕のアパートは厚木基地の近くにあり、
毎日頭上を軍用機が飛んでいる。

21歳の頃。アメリカ陸軍攻撃ヘリコプター「AH-1S コブラ」
通称「ワンエス」の設計をやっていたことを思い出した。
現在も装備され外観からも確認できる「自己防護システム」は
僕の手による物だ。

その機能のひとつの「レーダージャマー電波」は強力な周波数と
出力で人を溶かしてしまうほど。それをパイロットとガンナーの
頭のすぐ横を通過させる設計には、ひどく神経を使い、
その約1年で100の血圧を248まであげてしまった仕事だ。

・・・・・

8歳位のころ、おじいちゃんから「ゼロ戦に乗って洋上に墜落、
米軍に助けられ帰国」という話しを聞いたことがある。もっと
聞きたかったけど、おじいちゃんは語らない雰囲気をだしていた。
僕も、幼いながらにこれ以上聞けない雰囲気を感じ取った。

ゼロ戦に乗った男のその孫が、米軍機の設計をし、その図面を
アメリカの工場で製作する。ワンエスは今も世界のどこかで飛んでいる。

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人の歴史は奇妙な物だ。

やはり想うことがあって、仕事を選択できる地位にいたので、
その仕事は初期の時点で辞退を申し入れた。説得され却下された。
その設計思想を受け継ぐ人がいないのは自分でも痛いほど解っていたので、
コレは自分の仕事だ、やはりやらなければならないと覚悟した。

その仕事が終わるのを待ったかのように、母が突然の死をむかえた。
家庭の事情を理由に、軍事に関する仕事は引退した。

・・・・・

安保かぁ・・・何も知らないで生きてきた自分のイロイロがたくさん
思い浮かび、再び考えさせられた。

おじいちゃん。やさしいおじいちゃんだった。妻も親族もたくさんいたのに
世捨て人のように山林の家で一人で暮らし、盆栽や絵画、彫刻などの
個展を出したりしていた・・・

ん?

今の僕と同じではないか!!

たった今、気が付いた。
なんだこれは。
なんなんだ。
by nopain-nogain | 2008-01-02 23:59 | 仕事と勉強 | Comments(0)


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